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イースター島旅行記

 

 私が秋たけなわのチリ・サンチャゴ市の古ぼけた国内線空港ターミナルからイースター島行きの飛行機に乗り込んだのは、4月未のことだった。サンチャゴの小さな旅行代理店でアルバイトをしていた私にとって、往復30万ペソ(約700米ドル)という航空運賃は嘆息ものであったが、チリ滞在中にどうしても一度は行きたかったので大枚をはたいたのである。空港の搭乗待合室にはたいして乗客もおらず、日本人がけっこういた。中には知り合いの人に偶然に合って、「あっら−、あなたもイースター島に行くの?」なんて声高に日本語で話している人もいる。むろんサンチャゴ在住の日本人であろう。ところが、いざ機内に入るとこれがほぼ満席である。実はこの飛行機、イースター島経由タヒチ行きなので、乗客の大半は国際線のターミナルから乗り込んでいるのだ。隣に座ったチリ人の女の子もタヒチ経自でシドニーまで行くと言っていた。

 

 さて、この辺でイースター島の紹介を少ししておこう。この島は3つの名前を持っている。英語では、イースター・アイランド。スペイン語だと、イスラ・デ・パスクア。そして島の現地語では「ラパ・ヌイ」という。南米大陸から西に3700キロの南太平洋上にあり、最も近い有人島まで2000キロ以上離れているという、大変な秘境、まさに絶海の孤島である。外の文化から隔絶されたこの島では、モアイ像に代表される独自の巨石文化が花開いた。だが、この巨石文明の担い手だった人達が一体どこからやって来たのか、今でも確実なことば何ひとつ分かっていない。純粋なラパヌイ人たちは、近代になってヨーロッパ人がもたらした疫病などによりほぼ絶滅してしまい、今のラパヌイ人たちはみなポリネシア人、ヨーロッパ人、チリ人などの混血である。残っているのは、彼らの間で話されているラパヌイ語、彼らに語り継がれているラパヌイの伝説、そして島のあちこちに点在する物言わぬモアイ像だけなのだ。島の面積はたったの117平方キロ、そこに約2500人の人たちが住んでいる。彼らと外界を結ぶものは、週2回サンチャゴから入ってくる飛行機と、年2回バルパライソがらやってくる物資補給船だけなのだ。

 

 5時間半の順調な飛行の後、機は無事到着した。夜なので島の様子は全く分からない。飛行場の出口を出るとすぐに民宿の客引きにつかまる。1泊朝食付き14ドルというのを10ドルに値切って連れて行かれたところが、ボロっちいプレハブ小屋みたいなところで、部屋にはクモの巣がはり、すきま風がヒューヒュ−入って来る。ホット・シャワ−があるという話だったのにシャワーからは冷たい水しか出てこなかった。いやはや、すごい所に来てしまったものだとガダガタ震えながら実感したのだった。

 

 翌朝目が覚めると、風もやみ、カラッと晴れ上がっていい天気だ。昨日同じ便で来て同じ宿に泊まった加藤さんという新婚旅行のカップルと、デーンさんというアメリカ人のおばさんと4人でレンタカーを借りて早速島巡りをすることになった。島内にはバスもタクシーもないので観光にはレンタカーの利用が不可欠なのだ。艮宿のおばさんの知人からガソリン代込みで1日45ドルと格安で借りることができた。クルマは家の前に力ギをつけて置いておくから、勝手に使って午後7峙までに返してくれという。この島でばクルマにカギをかけたりする人はいないそうだ。それはそうだろう。盗んだとしても隣の島は2000キロの海のかなただ。

 

 さて、クルマというのはスズキの小さな4WDジープ『サムライ』であった。舗装道路が部落のメインストリートー本きりというこの島では4WD車が欠かせない。デーンさんがハンドルを握って、いざ島内探検に出発した。まず目指したのが、部落のすぐそばにそびえるラノカウ山だ。標高400メートル程の死火山で、頂上付近は大きなクレータ−になっている。イースター島は火山活動によりできた島なので、島内のあちこちにクレータ−がぼこぼこと起立していて、おもしろい景観を作りだしている。ラノカウ山の頂上付近にはオロンゴというかつての島民たちが儀式を行った遣跡があり、岩面に沢山の彫刻がある。遺跡の海側は断崖になっており、沖合に小さな島が3つある。かつてこの島まで海鳥の卵を取りに行く競争が行われ、勝った氏族の曾長がそれから一年間鳥人という神様となって島民に崇拝されたのだという。

 

 遺跡を見学し、海とクレータ−内部の湖沼群、そして島全体の眺望をゆっくり楽しんだ後、我々はまた4WD車サムライに乗り込んで島内探検を再開した。ラノカウ山を降りて島内一周道路に入る。まず訪れたのが「アフ・ビナプ」という遣跡である。「アフ」というのは、モアイ像を上に載せる石の土台のことで、この遺跡のアフが重要なのには理由がある。このアフの石組みの精巧な緻密さが何とあのインカ帝国の石組みとそっくりなのだ。数千キロ離れた南米大陸の山奥クスコにある石組みと、この南太卒洋の孤島にあるそれとがこれ程まで似ているというのは驚くべき事実である。これを見たノルウェ−の探検家へイエルダールは、ラパヌイ人は南米大陸からやって来たという説を打ち立てたのだ。

 

 「アフ・ビナプ」の精巧な石組みをじっくり観察した後、我々はまたサムライに乗って海岸道路を東に向かう。海岸に沿って至る所にアフとモアイの遣跡があり、この島は本当に島自体が大きな遺跡のようなものだど実感する。青い空と紺碧の海、そして緑の草原がどこまでも続く、素晴らしいドライヴウェーだ。やがて我々の前方左側に小さな丘が見えてくる。これが有名なモアイの製造工場だったといわれる遺跡、「ラノ・ララク」である。さらに近づくと丘のふもとのあたりに何か点々とゴマ粒のようなものが見える。これが実は全てこの丘で作られた後放置されたままになっているモアイ像なのだ。丘のふもとにクルマを止め、早速丘を登っていく。ここにはいろんなモアイがある。面長のスラッとしたモアイ、ずんぐりむっくりの不器用なモアイ、耳の長いもの、短いものなど実にさまざまだ。さらに丘を登って行くと岩壁の中に彫刻途中でつくりかけのモアイが沢山残っている。これらのモアイは岩壁から切り離されることなくそのまま放置されているのだ。中には全長20メートル以上もある巨大なものもあって、一体こんなものをどうやって運ぶつもりだったのか首をかしげてしまう。さらに丘を登って行くと、いきなり目前に小さなまんまるい湖が現れる。この丘も実は小さなクレーターだったのだ。あたりは馬たちが静かに草をはみ、牧歌的な雰囲気である。湖を左に見下ろしつつ、クレーターの内側を丘のてっぺん目指して登って行く。頂上からの眺めは素晴らしかった。島全体が一望のもとだ。涼しい風が吹き抜ける。持参のサンドイッチの昼食をとり、素晴らしい眺望をじっくり満喫した後下山。クルマに乗りこんで次に目指したのが島の北側にあるアナケナビーチだ。ここはこの島唯一の砂浜のビーチなのだ。火山活動からできた島なので、他の海岸は岩場ばかりで海水浴には適さない。ラパヌイに伝わる伝説によると、初めてこの島にやって来たホトゥマトゥア王が上陸し、住居を築いたのがここアナケナ海岸ということになっていて、ここにもいくつかのモアイ像が立っている。海水パンツー丁となってザブンと海に飛び込む。水は思ったより冷たかったが、透明で小魚が足をつついてくる。モアイを見ながら、海水浴というのもオツなものだ。

 

 海水浴の後、我々は島の縦断道路を突っ走って最後の目的地「アフ・アキビ」に向かった。ここには7つのモアイ像が立っているが、他のモアイ像は全て島の内陸部に向かって立てられているのに対し、アフ・アキビの7つのモアイ像だけは海の方を向いているというので有名なのだ。西の海の方を見て立っていることから、かつてホトゥマトゥア王がやって来たというポリネシアの方を見て、望郷の念にかられているのだとういう説がある。また、モアイ像の正面に住居跡の遣跡があることから、このモアイたちはこの集落の守り神で、海を向いているのは単なる偶然にすぎないという見方もある。可能性としては後者の方が強いとのことだが、私はむろん前者の説の方が好きだ。その方がロマンチックではないか。折しも、モアイたちの見つめる西の海の彼方に、真っ赤な夕陽が沈んで行った。夕陽を黙って見つめるモアイたちの表情を見ていると、やはり彼らは遠い故郷を懐かしんでいるに違いないという確信が沸いてくるから不思議である。タ陽の沈むのを待ってから部落に帰ったのはもう午後7時半だった。

 

 さて、島には他にも見どころがあり、書きたいこともたくさんあるのだが、観光案内はガイドブックにまかせておくことにして、ここでは私が島に滞在中に起こった出来事や印象を書いてみたい。島の中心となる部落はハンガロアといい、島民のほとんどはこの部落に住んでいる。商店が数軒と、学校がひとつ、教会がひとつあるきりの本当に何もない小さな集落だった。だが、この小さな集落にディスコだけは何と2軒あるのである。ホテルで知り合った日本人と3人でこのディスコの1軒に行ってみた。夜の11時を過ぎてからやっと人が集まって来るのはサンチャゴあたりのディスコとー緒だが、違うのは客の年齢構成であろう。ここでは小さな子供からお年寄りまで、とにかくあらゆる年齢の人が集まって来る。ディスコとはいってもただの掘建て小屋に毛が生えた程度のものだが、娯楽の少ないこの島では、週末の島民集会場のような役割を持っている。例えばおじいちゃんが息子夫婦と孫たちを連れて一族みんなでやって来て、友人と飲んだり話したり踊ったりするのだ。

 

 我々3人の日本人も地元の人たちとー緒に飲んだり踊ったりしていたが、そのうちに数人の女の子と知り合ってー緒に飲むことになった。その中にひとり、ポリネシア系混血のスラッとした美人がいたので、私は早速隣に座って話をする。セシリアといって20歳、島の生まれだ。彼女は私のことを気に入ってくれたみたいで、2人でチークを踊ったりもした。うーん、最高。他の2人の日本人も別の女の子とよろしくやっている。だがそんな私たちのユーフォリアも、長続きはしなかったのである。どういうわけか、女の子たちの飲むぺースが異常に速いのだ。しかも彼女たちだけでなく、一緒に来ている家族などにも飲ませるので酒の減るのが速いこと! 焼酎のような酒をコーラで割って飲むのだが、この酒とコーラのセットが何と12ドルもする。既に3セット消費してしまい、ビール等も合わせた出費は1人あたり20ドル以上になってしまった。セシリアもだんだん酔っぱらってきて、私の頬にキスをしながら、もう1本買ってきてなんていうのだ。この頃になるとだんだんと我々お人好しの日本人もこの女の子たちの目的が分かってきたから、もうお金がないからダメだといって断った。するとセシリア、「そんなのウソよ。それじゃあ、もうあなたなんかと話したりしない!」と言ってそっぽを向こうとする。これには私も腹を立ててしまい、すでに酔って疲れていたから、じゃあ帰ろうということになって、女の子たちを残して店を出たのである。何とも後味の悪い経験であった。それにしても、人口たった2,500人の小さな島に、こんなタイプの女が存在するというのは実にショックだった。我々日本人3人は、このイースター島のディスコで実にいいカモになってしまったのである。ああ、あのキッスはー体何だったんだ?「これがほんとのリップサービスってやつだね」なんて言って、後から自虐的に笑い合ったのであった。

 

 私がこの島に来て気がついた事のひとつには、多くの島民の生活が本当に貧しいという事である。島に来る前には、これだけ小さな島にこれだけ多くの観光客が来ているのだから、島民たちは観光収入でかなりいい暮らしをしているのだろうと想像していた。だが現実は全く違っていた。観光客のもたらすカネは、一部の大ホテルやツア−会社などにほとんど吸収されてしまい、一般島民の生活は貧しいままなのである。しかも金持ち観光客が気ままにカネを使うのをいつも見せつけられている。そして、きわめつけ、この島民たちの金銭感覚や価値観を徹底的に破壊してしまったのが、昨年島を訪れたケビン・コスナー率いる映画「ラパヌイ」の撮影隊であった。ある島民は言う。

「ケビン・コスナーたちはいきなり島にやって来て、全てのホテルを貸切り、食料や物資を全て買い占めてしまった。おかげで物価はあっという間に2倍になって、我々には何も買えなくなってしまったのさ。とにかくカネをばらまいて、島の女たちをエキストラとして裸で映画に出演させたりした。湯水のように使われるカネを見て、我々も気が狂ってしまったのさ」

現代社会から隔離されたような、人口二千数百人のこの孤島に住む人々にとって、それは想像を絶する出来事だったろう。

 

 島の人々は大変親切でとても明るい。しかし、その明るさの中に、私はある種の「影」を感ぜずにはいられなかった。表向きの明るさとは裏腹に、彼らは「影」を背負って生きている。そして、その影の部分を彼らは決して外部の者に見せようとはしないし、またそれを理解する事は不可能だろう。近世以降一貫して外部から侵略を受け、支配され、利用され続けてきた悲しい歴史がその背景にあることはもちろんだが、重要な事はそういった状況が今も昔も基本的には何も変わっていないという事実であろう。これだけ多くの観光客が島を訪れているのに、島民の生活はなぜ貧しいままなのか?そのカギを握るのが、チリ国営航空「ラン・チレ」である。ラン・チレが島の人々の生活をどれ程まで支配しているか、外部の人間には想像が難しい。貨物船もほとんどやって来ないこの島では、人間も物資も、とにかくほとんど全ての物がラン・チレの飛行機でやって来る。土地がやせているこの島では野菜などもたいしたものが取れないので、食料も多くを空輸に頼らざるを得ない。ラン・チレは実に島民の生命線を握っている。そのラン・チレが運賃や貨物料金を値上げすると、島民は決定的な影響を受けるが、彼らはそれに対して何の抵抗も出来ない。何か用があってサンチャゴまで行きたいと思っても、航空運賃は一般の島民には手が出ない程高い。若干の割引はあるが、いつも観光客で満席状態なので割引料金で乗るのは難しい。サンチャゴ、イースター島、タヒチを結ぶ航空路線は、ラン・チレにとって明らかにドル箱路線である。だが、こうして島民には犠牲を強いつつ観光客から巻き上げた利益が、主人公である筈の島民の福利厚生に使われることは全くないのだ。

 

 さて、私はこの島に10日間程滞在したが、島の自然や遣跡の美しさだけでなく、このような島の現実を知る機会に恵まれ、感慨深い旅となった。

 

 最後にちょっと明るい話題をひとつ。現在、島のトンガリキという遣跡で、日本のあるクレーン会社の寄付によりモアイの修復作業が行われている。この遺跡は十数個のモアイ像のある大変大きなものだったが、津波によりかなり大きな被害を受けてしまったのだ。今、日本人とチリ人の考古学者たちの合同チームにより、この遣跡の復元作業が行われている。粉々になったモアイ像を修復して、それをクレーンで土台の上に乗せていくという気の遠くなるような作業だが、こんな所で日本の技術が役立っているというのは嬉しいことだ。島の人たちの期待も大きい。

 

 サンチャゴに帰る前日の日曜日の朝、部落の教会を訪れた。教会の内部は島の人々でいっぱいだ。みんなちょっとおめかししている。神父さんの説教の合間に、多くの賛美歌が歌われる。メロディーばポリネシア風で大変美しい。やっぱりここは南米から遠く離れたポリネシアなんだなぁと実感したひとときだった。

 

 最後に、ラパヌイの美しい自然と、そこに住む優しい人々の持つ独自の文化が大事に守られていくことを念じて、この旅行記を終えることにしたい。()

 

<データブッグ> (1994年現在)

・イースター島への交通と、旅に適した季節

サンチャゴから週2便(12月から3月のシーズン中は週3便)ラン・チレ航空が飛んでいるが、シーズン中は予約が難しい。往復812ドル。日本からだと、タヒチへの旅行と組み合わせるのもお勧めだ。タヒチ・イースター島間も同じ便数の飛行機が飛んでいる。シーズン前の1011月か、シーズン後の4−5月の訪問がお勧め。6−8月の冬期は雨が多く寒い日が多い。

 

・イースター島のホテル

最もいいホテルはイオラナホテル。海岸に面した高台にあって部屋からの眺めが良い。日本食が食べたければ、ホテルトパラーがお勧めだ。日本人宿泊客には刺身や手巻き寿司を出してくれる。バックパッカ−向きの民宿はたくさんあり、島民の生活を知るよい機会にもなる。115ドル程度。

 

(この旅行を実施したのは、1994年です。以上の文章は全てサンパウロの日本語情報誌「オーパ」199411月号に掲載されましたが、一部修正してあります。)

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