5. サンクト・ペテルブルグへの旅
妻は生まれも育ちもサラトフで、モスクワ以外のロシアの町にはほとんど行ったこともなかった。だから、ロシアで地理的にも文化的にも西欧に近く、最も進歩した町といわれるサンクト・ペテルブルグに行くことは、小さい頃からの夢でもあったのだ。私は5年程前に一度訪れていたが、この機会に妻と再訪することにした。
サラトフからサンクト・ペテルブルグまでは約1500キロあり、直通の飛行機はなく、直通列車は週2本しかなかった。結局モスクワ経由で電車で行くことにする。どうせモスクワに立ち寄るならと、ついでにモスクワの北東にある2つの町、ロストフ・ベリキとスズダルを訪れることにした。どちらの町も、古い教会がたくさんあって歴史的町並みが残っていることで有名で、この地方にはこのような町が輪のような形で並んでいるため、『黄金の輪』と呼ばれている。なぜ『黄金』なのかというと、ロシア正教会の尖塔は多くの場合金メッキされており、黄金色に光り輝いて見えるからである。
まず我々はサラトフからモスクワ行きの夜行列車に乗った。4人のコンパートメントで、マットレスや毛布、シーツ、タオルの他、新聞、雑誌、スナックやインスタントコーヒーまで備え付けてあり、なかなか快適だ。各車両に湯沸し器がついており、自分でお茶やカップめんなど作ることができる。ただ、二重の窓ガラスの内窓がくもっていて外がほとんど見えず、また暖房が効きすぎていて暑いのだが、窓を開けることが出来ないのには参った。列車は定時の午後4時に出発。車窓風景は大平原や畑、雑木林などが延々と続き、時々小さな集落を通り過ぎる。妻の母がピロシキをたくさん作って持たせてくれたので、それが夕食になる。やがて大平原のかなたに真っ赤な夕日が沈んでいった。
列車は翌朝7時半にモスクワに到着予定だったが、去年乗ったときには1時間ぐらい遅れたので、どうせまた遅れるだろうと私はタカをくくって寝坊してしまった。朝飯のピロシキを食っているうちに、なんと列車は定刻にモスクワ到着。あわてて荷物をまとめて下車準備をしていると、なんと列車は我々を乗せたまま駅を出て、車庫に向かってしまったのだ。結局次の駅を過ぎて大きな操車場みたいなところまで連れて行かれてしまった。そこから我々は線路の上を重い荷物を持って歩き回り、近くの駅まで行ってから近郊電車に乗って再度モスクワ駅に到着したのだった。やれやれ、とんだ滑り出しになってしまった。先が思いやられる。
モスクワで用を済ませてから、午後の列車でロストフ・ベリキへ。3時間ほどで到着。小さな町だが、中心部に中世の城壁とその内部の城や教会がそっくり残っている。これをクレムリンという。モスクワに限らず、ロシアの中世の主要都市には全てクレムリンがあったのだ。そして今日のお宿はなんと、このクレムリン内の城の一部を改造したもので、部屋の窓からは中庭と教会の尖塔が良く見える。高級ホテルと思いきや、これが単なる安宿で、我々の泊まったデラックスルームの室料は一泊1700円。だが大きな角部屋で、ソファーやTVもついている。夕食は町で唯一の高級レストランへ。これも由緒ある建物の中にあり、クローク係までいて物々しい雰囲気。客はマフィアっぽい男たちの1グループのみで、レストランの人間とは顔見知りのようだ。相当の出費になるかと思ったが、腹いっぱい食べて値段は日本の食堂のランチサービス並みだった。
翌日はクレムリン内の博物館をまわる。美しいイコンや絵画、金銀財宝の数々。だがオフシーズンのためか、見物客はほとんどいなかった。午後、バスを乗り継いで次の目的地、スズダルに向かう。到着したのは午後9時過ぎだったが、どういう訳か町全体の街灯が全く点いておらず、暗闇で何もわからない。しかも雪が解けて道路はびしょびしょであちこちに大きな水溜りができている。大きな荷物を持って暗闇の中を歩き回るのは大変だったが、何とか目指すホテルを見つけることができた。このホテルは百数十年以上前に建てられた修道院を改造したものだったが、これも安宿で、部屋代は1泊1500円。ところが、シャワーからは冷たい水しか出ず、聞くところによると町の給湯施設が財政難で湯の供給をストップしているのだという。ロシアでは今も湯の供給は地域単位なので、問題が発生するとその地区全体の家やアパートで湯が止まってしまう。ここスズダルではもう半年くらいお湯の供給がストップしているそうだ。ホットシャワーを浴びて旅の疲れを癒そうと思っていた身にはつらいことだったが、町全体で湯が出ない訳だから仕方がない。この町の役所も財政難で、街路灯の電気代を電力会社に支払えないため、街灯への送電が止められてしまったのだという。夜の町はまるで灯火管制下にあるみたいだった。レストランは全てもう閉まっていて、仕方なくキオスクでパンや飲み物などを買って部屋でみすぼらしい夕食を取る。私にはこの程度の困難は慣れたものだったが、妻にはちょっとこたえたようでかわいそうだった。
翌日気を取り直して町の見物に出かける。昨夜は真っ暗闇で何もわからなかったが、あちこちに古い教会が点在し、とても美しい町だった。博物館や宝物館等を見学し、のんびりと歩く。中央部を河が流れていて、周りは雪原になっている。河は凍っていて、釣り人が何人か氷の上に座って釣り糸をたれていた。なんとも牧歌的な雰囲気で、夏に来ればたいそう美しい所だろう。古い修道院を改造した情緒あるレストランで昼食をとる。こんな町がソビエト時代にもずっと変わらず存在し続けていたなんて驚きだ。午後はクレムリンの博物館を見学。やはりすばらしい絵画やイコン、宝物の数々に圧倒される。できればもう一泊くらいしたいところだったが、今夜の夜行列車でモスクワからサンクト・ペテルブルグに向かうつもりで切符を買ってあったので、夕方のバスでモスクワに向かう。約5時間で午後10時にモスクワ着。深夜12時発のサンクト・ペテルブルグ行き夜行列車に乗り込んだのだった。
さすがにロシアの2大都市を結ぶロシア国鉄の看板列車だけあって、車両は新しく清潔で快適。650キロ離れた二つの町を8時間半で結ぶ。4人のコンパートメントで運賃は1人2000円と格安だ。疲れていたためかぐっすり眠って、翌朝8時半、列車は定時にサンクト・ペテルブルグの駅に滑り込んだのだった。
列車を降りると、ピリッと冷たい空気に身が引き締まる。天気は良かったが、駅の温度計は氷点下10度を指している。さすがに北緯60度の都市だけのことはある、3月下旬というのにこの寒さだ。荷物も多かったので、駅前の『10月ホテル』にチェックイン。名前から想像がつくようにソビエト時代からある安宿で、無愛想な典型的コミュニストスタイルのホテルだ。だが、そんなに安くもなく、朝食つきで2人約4200円。部屋も典型的なソビエトスタイルで、あまり清潔ではなく、他の国ならその半額で十分泊まれるだろうというくらいのレベルだ。まあこれだけの大都市の中心地にあるのだから、仕方ないと言うべきか。
サンクト・ペテルブルグにはそれから6日間滞在し、数々の見所を精力的にまわった。天気は毎日快晴だが昼間も氷点下5,6度以下の寒い日が続く。ダウンジャケットを着込んで、毛糸の帽子や手袋でしっかり武装しても、風がけっこうあるのでまだ寒い。街の中心を流れるネヴァ河はかなり凍っていて、河の上を歩いて渡れそうだった。エルミタージュ美術館や、ロシア美術館、そして数々の美しい教会。郊外プーシュキンのエカテリーナ宮殿やパブロフスク公園にも行った。かつてロシア皇帝が持っていた強大な権力とその富の膨大さにただただ圧倒される気持ちだ。初めて訪れる妻にとっては、母国の持つすばらしい文化遺産を再認識する機会となった。
ところで、この街に滞在中、一度危ない目にあった。メインストリートのネフスキー・プロスペクトを走るトロリーバスに乗ったときのことである。かなり込み合っていたのだが、乗ってすぐ、人ごみの中で妻と引き離されてしまった。そしてふと気が付くと、私は5人組くらいの頑丈な男たちにすっかり包囲されていた。こいつらはグルだとすぐに気が付いたが、後の祭りである。バスに乗るときから私をターゲットにしてさりげなく囲んで乗って来たらしい。5人は混雑を巧みに利用して、私に身体を押し付けてくるので、全く身動きが取れない。誰かの手が私のポケットやかばんを探っている。万事休すと思えた。この時、妻が機転を利かせて、5人組の一人に、ロシア美術館へ行くにはどこで降りればいいのか尋ねたのだ。5人組の包囲網がちょっと緩んだ。私の連れがロシア人と知ってちょっとひるんだらしい。美術館はまだまだ先だなどと、適当なことを言っている。だがバスが次の停留所に着いた時、妻は、降りますから通してくださいと大声で叫び、私もロシア語でスミマセンを連発して、彼らがちょっとひるんだすきに、無理矢理包囲網を突破してバスから脱出したのだった。荷物やサイフを調べてみたが、奇跡的に何も取られていなかった。もし私が1人だったら間違いなくやられていただろう。この一件があってからというもの、妙に神経過敏になってバスに乗るのが怖くなってしまった。それにしてもこの泥棒たち、けっこういい服装をしていて、全然泥棒には見えず、普通の市民といった顔立ちだった。彼らは終日こうやってメインストリートを走るバスの中で行ったり来たりしていい商売をしているのだろう。
サンクト・ペテルブルグでの6日間はあっという間に過ぎた。私は5日もあれば十分だろうと思っていたのだが、実際には6日間でも足りず、まだまだ行きたい所がたくさんあった。だがもうサラトフに帰らなければならない。帰りは直通の列車で帰ることにした。サラトフまで1500キロ、29時間の旅だ。列車は午後8時発だったので、ぎりぎりまで観光して発車10分前に列車に乗り込んだのだが、コンパートメントのドアを開けて思わずビビってしまった。同室の乗客がいかにも人相の悪い頑強な大男2人組だったのだ。4人用のコンパートメントクラスは2等車で、さらに安い3等車もあるため、客層は通常悪くない。上品なカップルや家族連れがほとんどだ。こういう怪しい連中は普通3等車に乗るのだが・・・。とにかくがっしりした大男で、こんな連中に襲われでもしたらひとたまりもない。しかもよく見ると、一人の大男の腕には入れ墨で番号が書いてあった。妻は、これは刑務所に入っていた証拠だという。さらに、2人の大男はロシア語とは全く違う中央アジアの少数民族の言語で話していた。だから2人で話しているときは何を話してるんだか妻にも全くわからない。一難去ってまた一難といった心持だった。とにかくサラトフに着くまでこの2人の行動を注意深く観察し、細心の注意を払うしかない。妻と相談して、とにかく今夜はできるだけ眠らずに男たちの行動を観察しよう、そして少しでも怪しいことがあったら飛び起きようと決めた。そんなわけで、その夜は男たちがちょっと動いたりするたびにびくびくして目が覚めてしまい、まんじりともしなかった。
運のいいことに心配していたことは何も起こらず、無事朝を迎える。朝の光の中で見ると、男たちの人相もそれ程には悪くないようで、少しホッとした。だが安心するのは早い。サラトフに着くのは深夜の午前1時なのだ。もし彼らが何か仕出かすとするなら、到着直前だろう。今夜は本当に一睡もできない。そんなわけで、その夜は到着まで絶対に眠らないと心に決めたのだが、昨夜も寝不足だったのでこれは本当につらかった。結局11時過ぎには睡魔に襲われてうとうとしてしまう。だが、運の良いことに恐れていたことは何も起こらず、列車は定時にサラトフ到着。白タクをつかまえて妻の両親のアパートを目指す。ところが、安心するのはまだ早すぎた。このタクシーの運転手、どうも人相が悪く、麻薬中毒者のような血走った目をしていて、乗るときかなり心配だったのだが、いつもと違う知らない道を猛スピードで走り出したのだ。深夜なので通りは人っ子一人いない。ゴーストタウンみたいな町を、運転手は気違いみたいに飛ばしていく。タクシーの運転手が強盗に早変わりすることもあると聞いていたので、生きた心地がしなかった。だが、運命の女神は、我々をハラハラドキドキさせながらも、完全には見捨てなかったようだ。この運転手、単なるスピードマニアで、裏道を通って無事アパートに到着。午前1時半だったが、妻の母が入り口で待っていてくれた。サンクト・ペテルブルグへの旅は思わぬ大冒険となったが、五体満足で帰ってくることができた。この夜は妻の両親のアパートで久し振りに熟睡することができたのだった。
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