Amazon.co.jp:地球の歩き方・ロンリープラネットなど、各種ガイドブックを送料無料(1500円以上)で購入できます

HOME(日本語)  HOME IN ENGLISH

目次   INDEX IN ENGLISH

 

ロシア旅行記

 

この手記は、2001年3月に約1ヶ月間妻の実家への里帰りを兼ねてロシアを旅行した際のものです。

(旅程:2001年3月2日―4月1日)

 

目次 (クリックするとスクロールします)

1. ロシアは成田から始まる:成田空港で早くもアエロフロート欠航というロシアの洗礼

2. サラトフへ:モスクワ地下鉄の迷路をかいくぐり、ソビエト製おんぼろジェット’ヤク’に乗ってサラトフへ

3. サラトフでの生活:ロシア庶民のダッチャ(別荘)を訪問

4.『レジストラチャ』のこと:ロシア下級官僚の真髄

5. サンクト・ペテルブルグへの旅:泥棒の攻撃をかわし、マフィアと密室で対峙した、決死の大冒険!!

6.帰国:列車事故を生き延び、五体満足で無事生還

 

1. ロシアは成田から始まる

 
ロシア体験は成田空港から始まった。我々がアエロフロート便の出発1時間半前に搭乗カウンターに行くと、フライトがキャンセルになったと告げられる。当日のモスクワ行きは2便あったのだが、そのうち我々の乗るはずだった便がキャンセルとなり、西欧への乗り継ぎ客はもう一便の方に振り替えられたが、モスクワ止まりの客は翌日の便に乗ることになったという。搭乗係員は空港職員なので、詳しい理由など何も知らず、アエロフロートの職員はどこかに雲隠れしてしまって出てこない。我々は一方的に昼食券を渡されて、2時間後にまた集まるように告げられる。


 昼食後、指定された場所に集まると、やはり翌日便に一方的に変更させられた人々が30名ほど集まっていた。ロシア人が多い。アエロフロート職員はやはり出て来ず、詫びの一言もない。バスに乗せられて、アエロフロートの手配したホテルへ。バスの中でロシア人たちの会話を聞いていた妻によると、運行されたもう一つの便に予約があったにもかかわらず、一方的に翌日便に変更させられた人もいたという。乗客の都合を完全に無視しての、明らかな経費節減のための欠航であった。結局アエロフロート職員はついに姿をあらわさず、一言の説明も、詫びの言葉もなかった。


 ホテルにチェックイン後、せっかく成田で1日泊まるのだからと、我々は成田の町を見物に出かけた。成田といえば、成田山である。広大な敷地が美しい日本庭園になっており、池では鴨が遊び、梅の花がもう咲いていて、すばらしい散歩になった。無責任なアエロフロートのおかげで、いい観光が出来た。おまけにいいホテルに泊まってうまいものを食い、妻は大喜び、私も不満そうな顔をしながらも、内心かなり喜んでいたのだった。

ページ頭へ

 

2. サラトフへ

翌日のモスクワ行きは予定通り飛び、我々はスムーズにロシア入国を果たした。だがそれからが大変である。妻の実家のあるサラトフは、モスクワから南東に約800キロ、ボルガ河流域の人口90万ほどの地方都市だ。日本の常識からいえば、モスクワから毎日沢山の飛行機や列車があると思うだろう。ところが、実際には、飛行機は1日1便、列車は2本しかない。しかも、飛行機も列車も国外からは一切予約できないときている。1日1便しかないサラトフ航空のサラトフ行きは、出発が午後8時半で、我々がモスクワに着いてから4時間の乗り換え時間があった。ところが、この飛行機の出る飛行場は、国内線が中心の別の飛行場で、モスクワ市をはさんで全く反対側にあり、70キロ位離れている。空港間を結ぶ直通の列車やバスなどない。タクシーに乗るか、バスと地下鉄を乗り継いでいくか、2つに1つだ。しかもこの空港にたむろするタクシーはマフィアも同然で、いくらボッタくられるか見当もつかない。間に合うかどうか判らなかったが、我々はミニバスと地下鉄を乗り継いでもう一つの空港に向かった。巨大な荷物を抱えての、大変な移動である。モスクワの地下鉄は本当に地下深くに造られていて、プラットフォームへの上り下りはいつも長大なエスカレーターに乗ることになる。しかし街路から駅への上り下りは階段だけで、エスカレーターもエレベーターもない。別の路線への乗り換えは、いつも沢山の階段を上り下りしなければならない。多くの荷物を抱えての移動は本当に骨の折れる大仕事である。


 大汗をかいてもう一つの空港に到着したのは、サラトフ行き便のチェックイン締め切りの3分前だった。急いで航空券を購入し、チェックインを済ませる。あとからチケットの金額を見たら10ドルくらい余計にとられていることが判ったが、こういう状況ではどうしようもない。当日便に乗れただけでラッキーだった。それにしても、空港のカウンターでさえこうやって金をごまかすのだから・・・。 


 サラトフへの飛行機は旧ソ連製のYAK。30年くらい飛んでる感じの代物だ。リクライニングが壊れていて座席の背が後ろに倒れたままだったので、後ろの人はさぞかし迷惑したことだろう。だが順調に飛んで、午後10時サラトフに到着。怪しい白タクと交渉して、午後11時ごろ無事妻の実家に到着。成田のホテルから19時間、札幌のアパートを出てから実に47時間の旅だった。モスクワから電話するヒマがなかったにもかかわらず、妻の両親は我々の部屋を用意して待っていてくれた。6ヶ月ぶりの再会だった。

ページ頭へ

 

3. サラトフでの生活

 
妻の両親はロシアでは全く普通の、巨大な10階建てアパートメントブロックの6階に住んでいる。外から見るとあまりきれいな感じはしないが、内部は清潔でこぢんまりとしている。2LDK程度の広さのアパートに、妻の両親と祖母の3人が暮らす。地域暖房のため、部屋の中は暑い位だった。だが温度の調節は全く出来ない。暑ければ窓を開けたり、スチームの部分を毛布で覆ったりして調節している。お湯も外部から供給されるので使い放題。そういう意味では、冬の生活は快適だ。


 雪や雨の日がしばらく続いたが、やがて天候が回復すると同時に寒気団が戻ってきて、快晴だが日中でも氷点下5,6度の寒い日が続くようになる。そんなある日、妻の両親が郊外のダッチャに行くというので我々も同行することにした。ダッチャとはロシア語で別荘の意味だが、その定義は日本語の別荘とはちょっと異なり、大変幅広い。大金持ちの豪華な別荘もダッチャだし、普通の人が郊外の畑に寝泊りするために自分で作った掘っ立て小屋もダッチャである。さて、妻の両親はどのようなダッチャを持っているのか。


 郊外電車に揺られて1時間半、そこからさらに30分ほど歩いたところに、そのダッチャはあった。ボルガ河のほとりで、周囲は同じようなダッチャや畑が果てしなく続く、美しい田園地帯だ。3階建てのりっぱな建物だが、全て自分で少しずつ造ったという。1階はリビングルームと台所に小さな寝室、2階は広い部屋になっていて、3階は物置になっている。大きな地下室もあって、去年畑で採れたじゃがいもやりんごが大量に保管されていた。大変快適に見えるが、実はここには水道も、シャワーも、トイレもない。水は近くの井戸から汲んでくる。トイレは屋外の物置小屋の中にあって、排泄物はちゃんと再利用されるのだ。身体を洗いたければ近くのボルガ河に飛び込めばよい。


 昼食は妻の両親が屋外で炭火を起こしておいしいシャシュリク(豚肉の串焼き)を作ってくれた。その後妻とボルガ河畔まで散歩に出る。河は完全に凍っていて、氷の上を人が歩いている。氷に穴をあけて釣りをしている人もいた。帰りの電車の中にはそんな釣り人たちが沢山いて、自分の釣った魚を電車の中で売り歩いている。市価の半値に近い値段とあって、妻の両親も魚を2匹買い求めていた。


 ロシア人にとって、ダッチャの家庭菜園はなくてはならぬものだ。趣味というよりは、実益の方が大きいといえる。自分の家で食べるための様々な野菜や果物を作る。妻の両親の家では、トマトジュースも、いちごジャムも、ぶどう酒も、全て自家製だった。冬の間に食べるじゃがいもや、ピクルスやサラダの原料になる野菜も大量に作る。こうやって自分の家で保存食を作る伝統が、各家庭で今も受け継がれているのだ。

ページ頭へ

 

4.『レジストラチャ』のこと

 ロシアの査証を取るには、いまだに『招待状』が必要だ。形式的には、『招待状』と滞在期間のホテルバウチャーが必要だが、実際には別にホテルを予約しなくても形式だけの招待状とホテルバウチャーを発行してくれる旅行社が沢山ある。こうして私も簡単にロシアの査証を手に入れ、難なく入国できたのだが、実はもう一つの難関が待ち受けていた。それが『レジストラチャ』、査証の登録である。もしホテルに泊まるなら、そのホテルで簡単に査証の登録ができるのだが、私のように民家に泊まる場合、3日以内にその地区の警察署まで出向いて査証の登録をしなければならない。去年行ったときは、銀行で登録料を払って、警察署に行ってすぐ登録できた。今年もそのつもりだったのだが、どういうわけか手続きが変わっていて、簡単には済まなくなっていたのだ。警察署に行ってみると、長蛇の列が出来ている。中央アジアから来た難民らしい。しかも、査証の登録は週3回だけ、1日2時間のみの受付とわかった。難民たちはこの寒さの中朝の4時から並んでいるという。さらに、彼らの話を聞いて、査証の登録にはエイズ検査を含む健康診断書まで必要だとわかった。エイズ検査は結果が出るまで1週間くらいかかる。これでは3日以内の登録など不可能ではないか! 


 とりあえずその日の登録はあきらめるしかなかったが、妻の両親に相談し、この警察署で昔働いていたという彼らの友人の助けを借りることにした。この人に同行してもらえば、少なくとも顔パスで長蛇の列に並ぶことは避けられるはずだった。問題は1週間かかるというエイズ診断書だが、これは病院へ行って通常の検査料金の倍額を支払うことによって無検査で『健康証明書』がすぐに交付された。2日後、これらの書類を持って助っ人とともに再度警察署を訪れるが、担当の係官は無愛想な中年のおばさんで、何だかんだと書類の不備を指摘し、結局登録の受付をしてくれなかった。登録する住所のアパート住民代表のサインとスタンプが要るというのだ。ここであきらめてはいけない。こういうタイプの下級公務員は、ほかに楽しみもないから、こうやって威張って人々を何度も来させる事に生きがいを感じているのだ。だからたいてい最初の訪問ではOKにならない。ひたすらペコペコして2度3度と足を運べば何とかなるものなのだ。さらにその2日後、必要だと言われた書類をそろえ、菓子折りを持って再度訪問する。いろいろ文句を言われはしたが、今度は大丈夫な感じだ。ところが、ここで昼休みの時間に入ってしまい、3時にまた来いといわれてしまう。一筋縄では行かない、筋金入りのロシアの下級官僚だ。だがここまでくれば、最後の辛抱である。我々は午後3時に再訪し、1時間ほど待たされたものの、申請は受理され、査証登録済みのスタンプを獲得することが出来た。4度目の訪問だった。

ページ頭へ

 

5. サンクト・ペテルブルグへの旅

 妻は生まれも育ちもサラトフで、モスクワ以外のロシアの町にはほとんど行ったこともなかった。だから、ロシアで地理的にも文化的にも西欧に近く、最も進歩した町といわれるサンクト・ペテルブルグに行くことは、小さい頃からの夢でもあったのだ。私は5年程前に一度訪れていたが、この機会に妻と再訪することにした。


 サラトフからサンクト・ペテルブルグまでは約1500キロあり、直通の飛行機はなく、直通列車は週2本しかなかった。結局モスクワ経由で電車で行くことにする。どうせモスクワに立ち寄るならと、ついでにモスクワの北東にある2つの町、ロストフ・ベリキとスズダルを訪れることにした。どちらの町も、古い教会がたくさんあって歴史的町並みが残っていることで有名で、この地方にはこのような町が輪のような形で並んでいるため、『黄金の輪』と呼ばれている。なぜ『黄金』なのかというと、ロシア正教会の尖塔は多くの場合金メッキされており、黄金色に光り輝いて見えるからである。


 まず我々はサラトフからモスクワ行きの夜行列車に乗った。4人のコンパートメントで、マットレスや毛布、シーツ、タオルの他、新聞、雑誌、スナックやインスタントコーヒーまで備え付けてあり、なかなか快適だ。各車両に湯沸し器がついており、自分でお茶やカップめんなど作ることができる。ただ、二重の窓ガラスの内窓がくもっていて外がほとんど見えず、また暖房が効きすぎていて暑いのだが、窓を開けることが出来ないのには参った。列車は定時の午後4時に出発。車窓風景は大平原や畑、雑木林などが延々と続き、時々小さな集落を通り過ぎる。妻の母がピロシキをたくさん作って持たせてくれたので、それが夕食になる。やがて大平原のかなたに真っ赤な夕日が沈んでいった。


 列車は翌朝7時半にモスクワに到着予定だったが、去年乗ったときには1時間ぐらい遅れたので、どうせまた遅れるだろうと私はタカをくくって寝坊してしまった。朝飯のピロシキを食っているうちに、なんと列車は定刻にモスクワ到着。あわてて荷物をまとめて下車準備をしていると、なんと列車は我々を乗せたまま駅を出て、車庫に向かってしまったのだ。結局次の駅を過ぎて大きな操車場みたいなところまで連れて行かれてしまった。そこから我々は線路の上を重い荷物を持って歩き回り、近くの駅まで行ってから近郊電車に乗って再度モスクワ駅に到着したのだった。やれやれ、とんだ滑り出しになってしまった。先が思いやられる。


  モスクワで用を済ませてから、午後の列車でロストフ・ベリキへ。3時間ほどで到着。小さな町だが、中心部に中世の城壁とその内部の城や教会がそっくり残っている。これをクレムリンという。モスクワに限らず、ロシアの中世の主要都市には全てクレムリンがあったのだ。そして今日のお宿はなんと、このクレムリン内の城の一部を改造したもので、部屋の窓からは中庭と教会の尖塔が良く見える。高級ホテルと思いきや、これが単なる安宿で、我々の泊まったデラックスルームの室料は一泊1700円。だが大きな角部屋で、ソファーやTVもついている。夕食は町で唯一の高級レストランへ。これも由緒ある建物の中にあり、クローク係までいて物々しい雰囲気。客はマフィアっぽい男たちの1グループのみで、レストランの人間とは顔見知りのようだ。相当の出費になるかと思ったが、腹いっぱい食べて値段は日本の食堂のランチサービス並みだった。


  翌日はクレムリン内の博物館をまわる。美しいイコンや絵画、金銀財宝の数々。だがオフシーズンのためか、見物客はほとんどいなかった。午後、バスを乗り継いで次の目的地、スズダルに向かう。到着したのは午後9時過ぎだったが、どういう訳か町全体の街灯が全く点いておらず、暗闇で何もわからない。しかも雪が解けて道路はびしょびしょであちこちに大きな水溜りができている。大きな荷物を持って暗闇の中を歩き回るのは大変だったが、何とか目指すホテルを見つけることができた。このホテルは百数十年以上前に建てられた修道院を改造したものだったが、これも安宿で、部屋代は1泊1500円。ところが、シャワーからは冷たい水しか出ず、聞くところによると町の給湯施設が財政難で湯の供給をストップしているのだという。ロシアでは今も湯の供給は地域単位なので、問題が発生するとその地区全体の家やアパートで湯が止まってしまう。ここスズダルではもう半年くらいお湯の供給がストップしているそうだ。ホットシャワーを浴びて旅の疲れを癒そうと思っていた身にはつらいことだったが、町全体で湯が出ない訳だから仕方がない。この町の役所も財政難で、街路灯の電気代を電力会社に支払えないため、街灯への送電が止められてしまったのだという。夜の町はまるで灯火管制下にあるみたいだった。レストランは全てもう閉まっていて、仕方なくキオスクでパンや飲み物などを買って部屋でみすぼらしい夕食を取る。私にはこの程度の困難は慣れたものだったが、妻にはちょっとこたえたようでかわいそうだった。


 翌日気を取り直して町の見物に出かける。昨夜は真っ暗闇で何もわからなかったが、あちこちに古い教会が点在し、とても美しい町だった。博物館や宝物館等を見学し、のんびりと歩く。中央部を河が流れていて、周りは雪原になっている。河は凍っていて、釣り人が何人か氷の上に座って釣り糸をたれていた。なんとも牧歌的な雰囲気で、夏に来ればたいそう美しい所だろう。古い修道院を改造した情緒あるレストランで昼食をとる。こんな町がソビエト時代にもずっと変わらず存在し続けていたなんて驚きだ。午後はクレムリンの博物館を見学。やはりすばらしい絵画やイコン、宝物の数々に圧倒される。できればもう一泊くらいしたいところだったが、今夜の夜行列車でモスクワからサンクト・ペテルブルグに向かうつもりで切符を買ってあったので、夕方のバスでモスクワに向かう。約5時間で午後10時にモスクワ着。深夜12時発のサンクト・ペテルブルグ行き夜行列車に乗り込んだのだった。


 さすがにロシアの2大都市を結ぶロシア国鉄の看板列車だけあって、車両は新しく清潔で快適。650キロ離れた二つの町を8時間半で結ぶ。4人のコンパートメントで運賃は1人2000円と格安だ。疲れていたためかぐっすり眠って、翌朝8時半、列車は定時にサンクト・ペテルブルグの駅に滑り込んだのだった。


 列車を降りると、ピリッと冷たい空気に身が引き締まる。天気は良かったが、駅の温度計は氷点下10度を指している。さすがに北緯60度の都市だけのことはある、3月下旬というのにこの寒さだ。荷物も多かったので、駅前の『10月ホテル』にチェックイン。名前から想像がつくようにソビエト時代からある安宿で、無愛想な典型的コミュニストスタイルのホテルだ。だが、そんなに安くもなく、朝食つきで2人約4200円。部屋も典型的なソビエトスタイルで、あまり清潔ではなく、他の国ならその半額で十分泊まれるだろうというくらいのレベルだ。まあこれだけの大都市の中心地にあるのだから、仕方ないと言うべきか。


 サンクト・ペテルブルグにはそれから6日間滞在し、数々の見所を精力的にまわった。天気は毎日快晴だが昼間も氷点下5,6度以下の寒い日が続く。ダウンジャケットを着込んで、毛糸の帽子や手袋でしっかり武装しても、風がけっこうあるのでまだ寒い。街の中心を流れるネヴァ河はかなり凍っていて、河の上を歩いて渡れそうだった。エルミタージュ美術館や、ロシア美術館、そして数々の美しい教会。郊外プーシュキンのエカテリーナ宮殿やパブロフスク公園にも行った。かつてロシア皇帝が持っていた強大な権力とその富の膨大さにただただ圧倒される気持ちだ。初めて訪れる妻にとっては、母国の持つすばらしい文化遺産を再認識する機会となった。


 ところで、この街に滞在中、一度危ない目にあった。メインストリートのネフスキー・プロスペクトを走るトロリーバスに乗ったときのことである。かなり込み合っていたのだが、乗ってすぐ、人ごみの中で妻と引き離されてしまった。そしてふと気が付くと、私は5人組くらいの頑丈な男たちにすっかり包囲されていた。こいつらはグルだとすぐに気が付いたが、後の祭りである。バスに乗るときから私をターゲットにしてさりげなく囲んで乗って来たらしい。5人は混雑を巧みに利用して、私に身体を押し付けてくるので、全く身動きが取れない。誰かの手が私のポケットやかばんを探っている。万事休すと思えた。この時、妻が機転を利かせて、5人組の一人に、ロシア美術館へ行くにはどこで降りればいいのか尋ねたのだ。5人組の包囲網がちょっと緩んだ。私の連れがロシア人と知ってちょっとひるんだらしい。美術館はまだまだ先だなどと、適当なことを言っている。だがバスが次の停留所に着いた時、妻は、降りますから通してくださいと大声で叫び、私もロシア語でスミマセンを連発して、彼らがちょっとひるんだすきに、無理矢理包囲網を突破してバスから脱出したのだった。荷物やサイフを調べてみたが、奇跡的に何も取られていなかった。もし私が1人だったら間違いなくやられていただろう。この一件があってからというもの、妙に神経過敏になってバスに乗るのが怖くなってしまった。それにしてもこの泥棒たち、けっこういい服装をしていて、全然泥棒には見えず、普通の市民といった顔立ちだった。彼らは終日こうやってメインストリートを走るバスの中で行ったり来たりしていい商売をしているのだろう。


 サンクト・ペテルブルグでの6日間はあっという間に過ぎた。私は5日もあれば十分だろうと思っていたのだが、実際には6日間でも足りず、まだまだ行きたい所がたくさんあった。だがもうサラトフに帰らなければならない。帰りは直通の列車で帰ることにした。サラトフまで1500キロ、29時間の旅だ。列車は午後8時発だったので、ぎりぎりまで観光して発車10分前に列車に乗り込んだのだが、コンパートメントのドアを開けて思わずビビってしまった。同室の乗客がいかにも人相の悪い頑強な大男2人組だったのだ。4人用のコンパートメントクラスは2等車で、さらに安い3等車もあるため、客層は通常悪くない。上品なカップルや家族連れがほとんどだ。こういう怪しい連中は普通3等車に乗るのだが・・・。とにかくがっしりした大男で、こんな連中に襲われでもしたらひとたまりもない。しかもよく見ると、一人の大男の腕には入れ墨で番号が書いてあった。妻は、これは刑務所に入っていた証拠だという。さらに、2人の大男はロシア語とは全く違う中央アジアの少数民族の言語で話していた。だから2人で話しているときは何を話してるんだか妻にも全くわからない。一難去ってまた一難といった心持だった。とにかくサラトフに着くまでこの2人の行動を注意深く観察し、細心の注意を払うしかない。妻と相談して、とにかく今夜はできるだけ眠らずに男たちの行動を観察しよう、そして少しでも怪しいことがあったら飛び起きようと決めた。そんなわけで、その夜は男たちがちょっと動いたりするたびにびくびくして目が覚めてしまい、まんじりともしなかった。


 運のいいことに心配していたことは何も起こらず、無事朝を迎える。朝の光の中で見ると、男たちの人相もそれ程には悪くないようで、少しホッとした。だが安心するのは早い。サラトフに着くのは深夜の午前1時なのだ。もし彼らが何か仕出かすとするなら、到着直前だろう。今夜は本当に一睡もできない。そんなわけで、その夜は到着まで絶対に眠らないと心に決めたのだが、昨夜も寝不足だったのでこれは本当につらかった。結局11時過ぎには睡魔に襲われてうとうとしてしまう。だが、運の良いことに恐れていたことは何も起こらず、列車は定時にサラトフ到着。白タクをつかまえて妻の両親のアパートを目指す。ところが、安心するのはまだ早すぎた。このタクシーの運転手、どうも人相が悪く、麻薬中毒者のような血走った目をしていて、乗るときかなり心配だったのだが、いつもと違う知らない道を猛スピードで走り出したのだ。深夜なので通りは人っ子一人いない。ゴーストタウンみたいな町を、運転手は気違いみたいに飛ばしていく。タクシーの運転手が強盗に早変わりすることもあると聞いていたので、生きた心地がしなかった。だが、運命の女神は、我々をハラハラドキドキさせながらも、完全には見捨てなかったようだ。この運転手、単なるスピードマニアで、裏道を通って無事アパートに到着。午前1時半だったが、妻の母が入り口で待っていてくれた。サンクト・ペテルブルグへの旅は思わぬ大冒険となったが、五体満足で帰ってくることができた。この夜は妻の両親のアパートで久し振りに熟睡することができたのだった。

ページ頭へ

 

6. 帰国
 
 
数日後、いよいよ日本に帰るときがやってきた。サラトフからモスクワへは、より確実な列車で行くことにした。飛行機は霧が出たりして欠航になったらどうしようもない。モスクワから東京までは格安航空券だから、指定された便に乗らなければ権利を失ってしまうのだ。最後の機会だから、今まで乗ったことのなかった1等車、2人用のコンパートメントに乗ることにした。運賃は2等の約2倍だが、それでもサラトフからモスクワまで850キロ乗って1人約4000円だからとてもリーズナブルだ。


 妻の母が例によってたくさんピロシキやサンドイッチなど作ってくれた。妻にとっては、今度は両親との長い別離になる。いつでも電話で話が出来るとはいえ、日本はシベリアのタイガを隔てた遥か彼方だ。


 初めて乗る1等車は、4人乗りのコンパートメントから上段ベッドをはずして2人乗りにしただけといった感じだったが、それでも2人だけで気兼ねなくゆっくり寛げるのはいい。その夜は安心してぐっすり眠ることが出来た。


 翌朝、起きて顔を洗って朝食のピロシキを食べていた時のことである。いきなり列車が急ブレーキをかけて止まったまま、しばらく動かない。隣の車掌室から聞こえてくる話を聞いていた妻によると、踏み切りで車にぶつかったそうだ。だが別にぶつかった音も聞こえなかったし、変な振動も感じなかった。ちょっと信じられない。何と、車に乗っていた3人が死亡したそうだ。車の方は大破してひどい状況らしい。ロシアの機関車はとてつもなく巨大で馬力もすごいから、小さな車ならひとたまりもなかっただろう。機関車の方はほとんど被害もなかったらしい。


 これは相当長時間停車しているかと覚悟したが、1時間半ほどで列車は何事もなかったように動き出した。ついさっき失われた3人の命。だが列車はもうそんなことは忘れてしまったように、ひたすら先を急ぐ。結局、モスクワには1時間遅れで到着したのだった。


 それから先は、全てスムーズだった。地下鉄とミニバスを乗り継いで空港へ。しばらくカフェで時間をつぶしてチェックイン。税関検査も出国審査も、全く問題なかった。午後7時半、アエロフロート機はモスクワを離陸して北東に進路を取る。成田に着くまではロシアなのだから気が抜けないと自分を戒めながらも、安堵する気持ちを隠せない。国際線の飛行機の中はアエロフロートであっても、まだロシアの領空を飛んでいようと、ロシアとは別世界なのだ。アテンダントは優雅に微笑さえして、頼めばトマトジュースにレモンをつけて氷まで入れてくれる。スリッパと歯ブラシのセットが無料で配られ、あとから料金を請求されることもない。入れ墨をした人相の悪い大男も、血走った目をしたスピード狂のタクシー運転手も、集団スリも、意地の悪い下級官僚も、ここにはいない。そんなあたりまえのことが、たまらなくうれしい。


 成田に着いた我々は、寒い北海道にそのまま直行せず、水戸に一泊して翌日偕楽園で梅や桜の花見を楽しんだ。まだ雪が積もっているモスクワから来ると、ここは春爛漫といった感じで、別世界だった。全てが眩しく、色鮮やかに見えた。その夜、大洗からフェリーに乗ってのんびりと北に向かった。


 そんな風にして、ロシアへの旅は無事終わった。とてつもなく巨大で、果てしなく厳しく、限りなく優しく、途方もなく不器用で、めちゃくちゃ繊細な国、ロシア。この隣国がこれからどのような方向に進んでいくのか、注意深く見守っていきたい。(終)

2001年4月28日

ページ頭へ

 

旅行記目次へ

HOME(日本語)  HOME IN ENGLISH

目次   INDEX IN ENGLISH

 Amazon.co.jp:地球の歩き方・ロンリープラネットなど、各種ガイドブックを送料無料(1500円以上)で購入できます