HOME

目次

 

世界3カ国入院体験記

 

世界旅行は、むろん楽しいことばかりではありませんでした。言葉もほとんど通じない辺境の地で病気になることほど心細いものはありません。1人旅では、看病してくれる人も心配してくれる人も、誰一人いないのですから。今思い出しても大変な経験でしたが、異国の医師や看護婦たちのお陰で、無事病気から回復し、旅を続けることが出来ました。ここでは、当時の旅行日記をもとに、入院の顛末をまとめてみました。

 

 

中国で入院の巻(19904月)

 

もう13年も前の話である。チベットへの玄関口となっている西方の辺境都市ゴルムドを訪れた時のことだ。夜、安宿でシャワーを浴びた後突然下痢をして腹が痛くなってきた。どうも、その日露天で買ったナシを、喉が渇いていたので洗いもせずそのままムシャムシャ食べてしまったのが原因らしいと思い当たる。その後高熱が出て、夜通し数回下痢をして、苦しくてまったく眠れないまま朝を迎える。だるくて動きたくなかったが、このままではいかんと思い、重い腰を上げ近くの人民病院へ。症状を筆談で説明し簡単な診察の後、あっさり入院決定。1人部屋があてがわれた。その場で200人民元(当時のレートで約5,500円)払わされる。夕方点滴とめちゃくちゃ痛い注射を受けた。熱が高く寒気がして体が震え、注射の痛みも加わって生きた心地がしなかった。寒くてガタガタ震えながら毛布をもう一枚持って来てくれと頼むと、『メイヨー』の一言。仕方なく身体に鞭打ってベッドから起き上がり、ザックから寝袋を引っ張り出して中に入ると、暖かくてずいぶん楽になった。こんなところで寝袋が役に立つとは思わなかった。

翌朝になると、熱もかなり下がって楽になってきた。何も食べていないので下痢もすっかり止まった。この日は注射2本と血液採取のみ。昨日の注射はめちゃくちゃ痛かったので、そのことを身振り手振りで看護婦に訴えると、今日はお尻に注射針を刺した後、針の周りを指でもみながら薬液を注入するという、不思議な方法で注射してくれた。すると摩訶不思議、昨日のとてつもない痛みはどこへやら、全く痛くないのである。ちゃんとこうして痛くない注射をする方法を知っているくせに、昨日は面倒なのでそれをしなかっただけなのだ。その後は注射をするたびに、看護婦に身振りで指でもむ動作をしてくれるようにお願いし、痛くないように注射をしてもらった。昨日は死にそうな気分だったせいもあって、看護婦がみな鬼のように思えたが、今日は彼女たちにもけっこう優しいところがあるのがわかってきた。それにしても、病院のトイレが汚いのには閉口した。そもそも中国にはきれいなトイレなどまず存在しない(注:1990年当時)が、衛生状態をしっかり保つべき病院のトイレでさえ公衆便所のような汚さなのだから、あきれてしまう。水が全く出ず、従って便器には汚物がうずたかく積もっている。これを見ただけで便意もなくなってしまうのだった。

その翌日になると、かなり元気になり食欲も出てきたが、何も食べさせてくれないし、点滴もない。一体どうなっているのかと思い、腹が減ったとうるさく主張したら、夕食を持ってきてくれた。野菜炒め、卵スープにご飯で、1.5元(40円)。それにしても、病室のドアを開けておくと、知らない人たちが挨拶もなく勝手に部屋の中をじろじろと覗き込んでいくので、うっとうしくてかなわない。そこで、ドアを閉めておいたら、今度はわざわざドアを開けてジロジロ見ていくので、もうあきらめてしまった。彼らは病院の中でも患者の迷惑など考えずに大声で話したり、笑ったり、ドタバタ歩き回って病室を見物している。

その翌日、ほとんど気分も良くなって、食欲もあり、消化活動も正常に戻ったようだ。だが相変わらずトイレの水は断水したままで、糞尿の山が一段と高くなっており、糞をするにもさらに高度なバランス感覚を要求されるようになっていた。こんな不潔なところは早く出て行きたいと思い、退院したいと先生に申し出るが、明日だと言われてしまう。

翌日午前、やっと退院の許可が出て、安宿の招待所に移動。結局45日の入院で、費用は最初に支払った200元のみだった。病名は、『赤痢』だった模様。夜、久し振りのシャワーを浴びていい気持ちになっていたら、身体に石鹸を塗りまくったところでいきなり断水。石鹸を身体につけたまま寝る羽目になってしまった。苦難に満ちた中国の旅は続く。

 

 

パキスタンで入院の巻(19908月)

 

 中国での最初の入院から4ヵ月後のことである。そのとき私は、パキスタン北部カラコルム地方の奥地の村、カプルという所にいた。とんでもない辺境の部落で、バスが来ているスカルドゥという町まで、ジープの背に揺られて道なき道を6時間かかるという山奥だった。パキスタンに来てから下痢がちで疲れ易く、体調の思わしくない状況が続いていたが、このカプルに来てからさらに体調が悪化していた。下痢がひどく、吐き気がして何も食えず、喉だけ渇く。咳もひどくなり、胃袋がキリキリ痛い。しばらく安宿で我慢していたが、ついにある日コンディションは最悪となり、朝トイレで下痢をしながら上から吐いて戻した。その苦しみは言語を絶する。吐くといってもしばらく何も食べていないから、吐く物もなく、汚い胃液が出るばかり。その後ジュースやチャイを飲んだら、それも全部戻してしまった。死にそうな気分。宿の親父さんも心配して、スカルドゥに戻れと言う。このままでいたら本当に死んでしまいそうで、もう入院するしかないと思った。悪路6時間ジープの荷台にしがみつく旅に耐えられる自信はなかったが、病気の身体に鞭打って荷物をまとめ、その日の午後スカルドゥに行く貨物ジープの荷台に乗り込む。病気の身体にとって最悪の6時間だったが、とにかく無事、死にそうな気分ながらもスカルドゥの総合病院にたどり着いた。すぐに入院したい旨伝えるが、たまたま医者がいなくて、明日また来いと冷たくあしらわれる。だがこちらも必死だったので、入院が認められるまではてこでも動かない姿勢を見せたため、そのうち医者を呼んできてくれて、すぐに入院が認められる。彼は親切にもトイレ付きの個室をあてがってくれた。とにかく感謝。早速病室で点滴を打つ。有効期限を3ヶ月ほど過ぎた点滴薬だったが、文句を言っても仕方がない。イスラム教国のためか、男性の私には看護婦ではなく看護夫がつく。なんだかラフでいいかげんな感じの人で、愛想も悪く、ちょっと心配だった。このときは全く考えもよらなかったが、こういう時担当の医者や看護婦にちょっとしたチップや贈り物を渡すのが当たり前らしい。どうりでこの看護夫、ずっと私に愛想が悪かったわけだ。微熱があり、相変わらず気分は最悪。吐き気がしてフラフラする。妹が入院していて看病に来ているという、英語を話す親切なおじさんが来て、チャイなどを飲ませてくれた。1人旅で身よりのない私にはとても有難かった。しばらく話をする。

 翌朝、また例の親切なおじさんが来て、ホットミルクを飲ませてくれた。1人っきりの私としては大感謝だった。おじさんに売店からミネラルウォーターを買ってきてもらい、薬屋で買ってきたORASALという、下痢の時飲む粉末飲料を溶かしてガブガブ飲んだ。これは本当に効くようだ。少しは気分が良くなってきて、フラフラと病室を歩くことが出来るようになった。

 午後、突然おじさんがまたやって来て、入院していた妹が死んだのでもう帰るという。愕然として一瞬言葉も出ない。彼は32歳と言っていたから、妹さんは30そこそこだろう。なぜそんな若い人が死ななければならないのか?悲しみに歪んだ彼の顔は悲痛だった。でもこんな時にわざわざ私にさよならを言いに来るなんて、なんて強くてすばらしい人だろう。こういう状況では満足にお礼も出来なかったが、この人の優しさと強さは私の心に大きな希望と感動を与えた。本当に神様みたいな人だった。

 この病院は重病人の看護に忙しいようで、私みたいな死にそうにない患者にはあまり構っていられないようだ。この日の午後はもう誰も来てくれなかった。咳がひどかったのだが、薬も持ってきてくれない。医者は咳の薬をくれると言っていたのに、本当にいい加減だ。夜6時からラジオジャパンの日本語ニュースを聞く。日本は終戦記念日。相変わらず靖国神社でもめている。韓国では、独立・解放記念日。アメリカはペルシャ湾で海上封鎖に踏み切り、イラクとの間で一触即発の危機。世界は動いている。それにしても、現地の人の間でも下痢に関わる病気が非常に多いようだ。とにかくこの国の衛生状態は最悪の部類。上水道、下水道の基本的設備が全く出来ていない。ここスカルドゥでさえ、水道の蛇口から出る水に羽虫の死骸やらゴミやらが混じっていてびっくりしてしまった。上水道とはいっても、近所の川から水を取ってそのまま配給しているのだろうか。山間の小さな部落では、その辺の小川の水をそのまま飲用に使っている。その上流にも部落があって、人々が小川で洗濯をしているのだ。こういう状況では、この手の病気はなくならないだろう。基本的な設備さえ整えれば、こういう病気はほとんど絶滅できるのに…。とにかく、衛生観念って物が全くない。病院でさえこれだけ不潔なのだから…。全く嘆かわしい状況だ。親切にしてくれたおじさんの妹の死も、こういった状況の犠牲といえるのではないだろうか。

 翌日、かなり気分が良くなってきたが、依然下痢は治らない。午前中近くの売店でミネラルウォーター(30ルピー:200円もした)、牛乳、ジュース、パンケーキ、アメ、ティッシュペーパーなど買ってくる。病院では食事など全く出ないし、点滴も最初の1本きりだったので、少し腹が減ってきていたのだ。昼食には牛乳とパンケーキを少し食べる。咳の薬をやっと持ってきてくれたので、飲んでみたら効果てきめん、咳が全く出なくなった。強力な薬らしい。他にもらっている薬は下痢薬1種類のみで、これで本当に治るのか心配だ。夕食は病院の小さな食堂でご飯とポテトを食べた。たったの5ルピー(35円)。だが夜中に下痢で目が覚めて、まだ良くなっていないことを思い知る。

 その翌日になると、かなり元気になってきた。前日買ってきた牛乳やパンケーキをベッドの上で食べる。晩飯は病院の食堂が閉まっていたため、外の食堂でマトンカレーライスを食べた。野菜カレーはなかったのだが、肉も抵抗なく食べることが出来た。この日は金曜日で休日のため、診察もなく、1日静かだった。それにしても、入院していても点滴をしてくれるわけではないし、食事も出ないし、検査をするわけでもないし、これではほとんど入院している意味がないので、出来れば明日あたり病院を出て市内のホテルに移り、そこで療養しようと思う。

 翌朝、医者の所へ行って退院したいと伝えると、2,3の質問の後あっさりOKとなった。費用はしめて430ルピー(約三千円)、そのうち部屋代が400ルピー(1100ルピーX4泊)を占めていた。あとの30ルピー(200円)は点滴1回の代金らしい。要するに、部屋代以外ほとんど無料ということだ。薬もあまりもらえなかったし、検査も全くしてくれなかったから、安いのも当たり前だろうか。薬漬け、検査漬けの日本とはえらい違いだ。だが、検査をして欲しかったのにしてもらえなかったのは、不安が残る。本当にこのまま良くなれるのだろうか。深刻な病でないように祈るばかりだ。結局何の病気だったのかさえ、さっぱりわからないのだから。というわけで、支払いを済ませて病室で領収書を待っていると、もう新しい患者がベッドに寝かされ点滴を受けながら入って来た。やはりここを出るという選択は正しかったようだ。もっと深刻な病気の人が山ほどいるのだから。

 11時頃病院を出て、街中の清潔なKarakoram Innに移った。1100ルピー(700円)だが、トイレシャワー付きだし、お湯も出るのがうれしい。昼食後久し振りにシャワーを浴びてきれいになる。生き返った気分だ。やっと、またパキスタンの旅を続けていける気分になってきたのだった。

 

 

ブラジルで入院の巻(19934月)

 

前回の入院から3年近くが過ぎ、今私は、地球の反対側ブラジルのエスピリト・サント州ビトリアの町にいた。ある日、一晩中体がだるくて熱も出て、朝起きると何と身体中に赤い湿疹が出ている。食欲もなく、喉だけがやたら渇いて、体がだるく何も出来なかったが、日曜日で病院が閉まっていたのでもう一日様子を見ることにした。

翌朝になっても状況は変わらず、回復の兆しもないので、このままでは身体が衰弱していくだけだと思い、入っていた旅行保険の救援センターに国際電話してみた。中国やパキスタンと違って、公衆電話からすぐコレクトコールできるので有難い。現在地と病状を説明し、病院を紹介してもらえないか頼むと、調査して30分ほどで電話するというので、宿に戻って電話を待った。30分ほどで宿に国際電話がかかり、何とこのビトリアに日本語を話す日系人の医者が一人いるから、その医者をホテルまで派遣してくれるという。全く思いがけないうれしい展開で、本当に電話して良かったと思う。で、その約1時間後に、赤井先生という日系の女医さんが私の宿を診察に訪れてくれた。だが、私の体を一目見るなり、これは入院した方がいいから、すぐ準備しなさいという。1時間後に車で迎えに来てくれるそうだ。全く願ってもない展開だった。で、午後1時ごろ、荷物を全部持って車で病院まで運んでもらった。トイレ付きの1人部屋をあてがってくれる。一度入院してしまえばこっちのもの、後は全て先生にお任せしていればいいと思うと、気持ちがとても楽になった。部屋には赤井先生や他の先生がたびたび診察に来てくれるし、食事も運んできてくれる。まだ熱があり体の節々が痛かったが、安心したためか夜はけっこう良く眠れた。

その後数日入院していたが、日増しに元気になってきた。赤井先生は栄養剤をくれたり、ジュースをくれたり、フルーツを持ってきてくれたり、いろいろと気を使ってくれる。食事もきちんと運ばれてくるし、中国やパキスタンの入院を経験していた私にとっては、天国のようだった。こんな地球の裏側の田舎町で、日本語を話すお医者さんにこれだけ親切にしてもらえるというのは、本当に有難いことだ。毎朝6時に投薬で起こされ、8時にパンとコーヒーの朝食、12時に昼食、午後5時に夕食という単調な毎日だったが、日に日に体力が回復していくのが良くわかった。

結局、56日の入院の後、退院する。入院費用はさすがに高く、1300ドルくらいになったようだが、全て保険会社が直接病院に支払ってくれるとのことだった。旅行保険に入っていて本当に良かったと思う。

 

 

番外編 イスタンブールの高級ホスピタル

 

これは入院ではないのだが、トルコのイスタンブールで病院に行ったときの話をしてみたい。季節は冬で、思いのほかの寒さのため、私はすっかり風邪をこじらせて、病院で診察してもらおうと思った。そこで、旅行保険のハンドブックに載っている病院に行ってみることし、電話で予約を取る。

地図を見ると、その病院は、郊外の海沿いにあった。地図を手にその辺まで行ってみるのだが、大きな高級ホテルがあるだけで、病院らしき建物は見当たらない。そこで道行く人に尋ねてみると、そのホテルが目指す病院だという。何だって?とよくよく見ると、確かに、何とか病院、という看板がついていた。恐る恐る入り口から入ってみると、ホテルと間違えたのも無理はない、ロビーにはふかふかのピンク色のじゅうたんが敷き詰められ、突き当たりはボスフォラス海峡を見渡す展望レストランになっている。受付にはモデルみたいな美人の女の子が座ってにっこり微笑んでいた。『あのぅ、診察の予約をしたんですが・・・。』すぐに内科の待合室に案内される。周りを見回して気がついたのだが、ここで働いている女性はみなモデルみたいな美人ばかりなのだ。しかも、制服は赤いミニスカートときている。町で見かける女性はこんな美人ばかりではないので、故意にルックスの良い女性ばかり集めたのは明らかだった。ふかふかのカーペットを敷き詰めた診察室で、美人の女医さんの診察を受ける。念のためレントゲン検査も受けたが、ただの風邪ではないかという事で、抗生物質などの処方を受けた。

病院を出る前に、広々とした展望室から真っ青な海を眺める。多分、金持ちの入院患者には、海を見渡す特別室なども用意されているに違いない。ミニスカートをはいた美人の看護婦さんが面倒を見てくれるんだろう。貧乏一人旅の私には、ふとトルコの金持ち患者たちがうらやましく思えてきたのだった。(終)

 

HOME

目次